2026-05-15
ポテトワールド
ファイルを整理していたら16歳の時に国語の宿題として書いた文章が出てきたので、ブログ用に整形してここに残しておきます
十一月某日、私は古くからの友人であり、現在はバイオ科学者となった山田の働く研究室を訪れた。
以前来た時には、そこには「山田研究室」と書かれていた。ところが今は、どういうわけか、落書きのような文字で「potato factory」と書かれている。黒いテープを雑に貼っただけの看板だったが、妙な説得力があった。
帰るべきだった。
人間には、見なかったことにしてよいものがある。好奇心とは、たいていの場合、危険を立派な言葉で飾っただけのものだ。
それでも私は扉を開けた。
部屋の中央に山田がいた。白衣を着ていた。髪は伸び、頬はこけていた。目だけが異様に明るかった。
「お前、何があったんだよ。」
挨拶より先に、それしか出なかった。
山田は喜ばしそうに言った。
「まだ詳しいことは分かってない。でも、俺はとんでもないものを見つけてしまったみたいだ。」
彼の手にあったのは、ただのポテトだった。
「ポテト?」
「違う違う。ポテイトウさ。」
彼はそのポテトを「ポテイトウ」と呼んでいた。
国際思考? 学生時代英語が苦手で、日本至上主義のような考え方をしていた彼が、なぜ今、こんなふうになってしまったのだろうか。
いや、もっとおかしいのは、彼が最近、自分の経歴について妙なことを言い出している点だった。詳しく聞くと長くなるし、正直聞きたくもなかった。どう見ても日本人だ。明らかに異常だ。
「ポテイトウ?」
「ポテイトウさ。お前がそう言うなら合わせてやらなきゃかもね。」
いやいや、なんも変わらないじゃないか。私のやるようなカタカナ英語でも、さすがにこのレベルの単語だと現地人だって何の支障もなく分かってくれるだろう。彼の英語下手で癇に障るところは変わっていないようだった。少し安心した。
すると、部屋の奥の扉が開いた。
開けた者は誰もいなかった、と、思った。だが、よく見ると下の方に、見たことのあるやつがいた。
あれは…Mr.ポテトヘッドではないか!
「ミスターポテトヘッドさんですか!」
驚いた私は、気づいた頃にはもう言葉を発していた。
「彼はミスターポテトヘッドさんじゃないよ。ポテイトウヘッドさ。ジェンダー平等の観点からもうミスターはつけられないんだ。」
ジェンダー平等にそこまでする必要はあるのか? そんなことは今はどうでも良い。彼の研究について聞かなければ。
ポテイトウヘッドは、まるで山田以外の人間を見たことがなかったかのように、興味深そうにこっちを向いていた。
「ポテイトウヘッドさんはどうやって動いているんですか。」
ポテイトウヘッドは口を開いた。
「…………」
言葉ではなかった。
だが、意味がなかったわけではない。湿った土。暗い倉庫。芽。増殖。根。保存。発酵。昼食。祈り。誰かが笑った記憶。誰かが捨てた皮。誰かが忘れた名前。
それらが、耳ではなく頭の内側に直接流れ込んできた。
私は思わず耳を塞いだ。耳を塞いでも、聞こえた。
山田は、ポテイトウヘッドの話を遮るように、わざと咳をして、真面目に言った。
「それを知りたくてお前を呼んだんだよ。こいつ、本物のおもちゃに見えるだろ。でも違う。こいつはポテイトウなんだ。なあ、一緒に調べてくれないか。」
やってみるしかない、と思ってしまった。
今考えると、この時点でだいぶおかしい。
私は、山田に案内され、ファクトリー内のとある場所に向かった。そこには、まるで本物のポテトのような、しかし周りのものが吸い込まれるような、不思議なものが壁についていた。
「これは…?」
「これはポテイトウポータル。簡単に言うとポテイトウワールドへの入口だ。いくぞ。」
「待て。まだ行くとは言ってない。」
ポータルに近づくと、私の携帯していた放射線測定器が叫び出した。
「大丈夫なのか。」
「大丈夫。今まで死んだ人間はいない。」
「今まで何人入ったんだ。」
「私だけだ。」
「統計を名乗るな。」
そう言いながら、私はもうポータルの前に立っていた。
穴の向こうは暗かった。だが、完全な暗闇ではなかった。何かがうごめいている。無数の丸いものが、柔らかく光を反射している。
山田が私の肩を押した。
世界が裏返った。
なんと…そこは出口付近以外はポテイトウのみで構成された世界だった。
今のうちに名前を当てておこう。ここは「ポテイトウワールド」だ。
「違う。」
山田が言った。
「ここはポテイトウサンクチュアリだ。」
知ったことか。私は私の呼び方を続けるぞ。
空は薄い茶色だった。地面は柔らかく、踏むたびに沈んだ。遠くには山があったが、その山もポテイトウだった。川のようなものが流れていたが、それも液状化したポテイトウだった。風が吹くと、土と油と、ほんの少し塩の匂いがした。
なぜ出口付近にはポテイトウ以外があるのか、私は考えてみた。さすがに入口が研究室というだけあって、山田のような研究者はここを出入りし、こちら側の世界でも研究をしていたんだろう。
困惑する私に、山田は言った。
「へへっ、この世界に溢れているポテイトウはね、構造が簡単だから錬金j…」
そこで彼は急に黙った。
いや、黙ったのではない。別の何かが、彼の口を使い始めた。
「こんにちは私は十八歳のアフリカ人です。ポテトファクトリーで働いています。 私はLoLをプレイするために二歳の娘と妻を売り日本にやって来ました。 あなたの配信のおかげで去年五ヶ月かけてブロンズ5からブロンズ四に昇進することができました。 この物語は私のものです。コピーペーストしないでください。」
私は何も言えなかった。
それは冗談のようだった。古いインターネットの奥底に沈んだ、意味も文脈も分からない文章のようだった。
だが、ここでは違った。
その文章が発せられた瞬間、周囲のポテイトウが一斉に反応した。地面の模様が文字列のように並び替わり、空の茶色い雲が、同じ文章の形を取り始めた。
ポテイトウヘッドが笑った。
プラスチックの口が、かちりと音を立てた。
私はようやく理解した。
ポテイトウは素材ではない。
生命でもない。
これは、コピーされるものだ。
コピーされ、名付けられ、改変され、所有者を増やしていくものだ。そして所有者を増やすたびに、原本の場所が分からなくなる。
「戻るぞ。」
今度は私が山田の腕を掴んだ。
私はポテイトウを三つほどの塊になるよう引っ剥がし、山田を連れて急いで元の世界へのポータルに戻った。
気づくと、私は元の研究室に戻っていた。
どのように戻ったのかは覚えていない。山田は床に倒れていた。机の上には、三つのポテイトウ片が置かれていた。持ち帰るつもりなどなかったはずなのに、私の手には土がついていた。
なんだかポテイトウへの情熱で頭がいっぱいになった。
え…?
冷静沈着がスローガンの私は、こんな感情になるはずなんてないのに…頭がおかしくなったみたいだった。しかし、これもこれで幸せだ。
私は研究を続けた。
分かったことが一つ。
ポテイトウは、工夫次第で何にだってなる。
断熱材にもなる。導体にもなる。培地にもなる。記録媒体にもなる。生体組織にも似る。模型にも、燃料にも、言語にも、神にも近づく。
そして何より、物語になる。
物語になったものは強い。物語は人間の頭に入り込む。人間はそれを覚える。話す。書く。少し変える。誰かに渡す。誰かがまた少し変える。
そうして、どこからが自分の言葉で、どこからが感染なのか分からなくなる。
調べれば調べるほど情報が増える。情報が増えるほど、ポテイトウはポテイトウでなくなる。そして、ポテイトウでないものが、少しずつポテイトウになる。
それからの記憶は曖昧だ。
まるで記憶が飛び飛びになったみたいだ。ポテイトウの研究過程で、私の研究室まで「potato factory」になっていた。
この先の研究は長くなりそうだ。